85 歳を過ぎた一人暮らしの祖母の家に行くと、曇ったガラスコップや茶渋が取れていないお茶碗に出会うことがあった。
日本家屋のお台所は暗く、視力の落ちた祖母にはお皿洗いも苦だったに違いない。今なら理解できる。私も段々見えにくくなってきているから。
人間はなかなか勝手な生き物で、その立場にならないと理解できないことが多い。
そこを理論に基づいて考えることによって、現状を把握したり、客観的に必要な援助を考え
ることができる。介護においては介護理論である。その根本的な理論から現実の生活にそく
した介護プランが立てられる。健康状態、既往症、障碍、家族関係、住環境は勿論だが、そ
れぞれのそれまでの生活習慣、仕事、環境、人間関係、宗教、文化背景なども深く関わって
くる。
ドイツにおいて介護施設で導入されているモニカ・クローヴィンケル考案の
AEDL
A – Aktivitäten und
E – existenzielle Erfahrungen
D – des
L – Lebens
日常生活行動と実存的経験の概念モデル) というものがあり、13 項目にわたって個人の基本的欲求を把握する指針になっている。
その 13 項目の中で、私が思わず唸った項目がある。
10 項目 Sich als Mann oder Frau fühlen und verhalten (男として女として感じ、振舞える。)
ジェンダー的にはこの表記はどうかと思うが、つまり御本人がそれまでの人生でどのセクシャリティをもち、それを社会的にも維持し続けることができるかということだ。
最近は変わりつつあるかもしれないが、日本では歳を重ね中性的になることが肯定される傾向にある。シニアの恋愛はネガティブに捉えられがちだ。祖母は 70 歳過ぎて初めてヨーロッパ旅行をしたとき、ヨーロッパシニア女性の明るい色彩の服を見て、「素敵な色、私もあんな服を着たいわぁ」と言っていた。未亡人の祖母は明るい色の服をふだん着ていなかった。ご近所の亡祖父の将棋友達も、近県に住む伯父の車が家の前に駐車している時だけ、伯
父と将棋を打つために訪ねてきていた。
ご近所が車のナンバープレートを見て、伯父の訪問を知ることができ、独身祖母が噂の主役にならないようにとの心遣いだった。
代わって、私のドイツ人 70 歳超えの友人達は独身女性であることを謳歌している。お洒落も、恋愛にも積極的だ。彼女達の恋話は聞いていてもドキドキする。結局、この項目はこの世に生を享けたからには、最期まで自分らしく生きていい。心も身体も自由であり、そしてそれが人間らしく生きるということにつながる。ということだろう。そして、本人が自力でそれをできなくなったとき、介護者の助けをかりて今まで通りの自分でいることを可能にする。これがこの項目の核であると私は思う。「果たして私はどう有りたいだろうか?自問自答の日々である」(記:Mari)